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   『北極星』






その日は、台風の過ぎ去った後の、恐ろしい程に大気が澄んだ日で。

熟した柿のように鮮やかな朱色から、布団のような優しい白さに飽和して、

そして藍染のハンカチーフのような優しい夜色へ。

秋の暮れ行く空は、そんな美しい濃淡に染めあげられていました。

その色が目に痛い程美しく、私は息をするのも忘れてしまいました。

心は空に浚われて、体は大気に溶けてしまうのではないかと、私は半ば心配し、半ば願いもしたのです。

その綺麗な綺麗な空には、凛と輝く一つの星がありました。

私はその星の名前を、その時見た綺羅綺羅とした星の光を、きっと生涯忘れることはないでしょう。






妹尾千咲子は14才である。

近隣の女学校に通う彼女は、年頃の少女らしくハイカラないでたちで、

桜の振袖と紺色の袴、小さな足には飴色のショートブーツを履いている。

夕暮れの風に吹かれて、耳のあたりで切りそろえた柔らかな黒髪がいたずらに薔薇色の頬をなでた。

日が落ち始め、白み始めた空の下、千咲子はわざと大きく足を踏み出して、

運動会の行進みたいに威勢よく歩いていた。

通いなれた土手道も、この宝石のように美しい空の下では新鮮に映り、

千咲子は名もなき野の花ににっこりと微笑んだ。

ほのかに心が浮き立って、時折周囲の者から不審げな眼差しをよこされてしまうのも気にならない。

故郷の宇宙へと帰ろうとする太陽は低く、まだまだ小さな千咲子に、背の高い影を作った。

「あら、背が高くて素敵なお嬢さんね」

千咲子はそう影に話しかけて、小粋に片足の踵をこつんと地面につけてポォズをとってみる。

光の悪戯で、自分よりも手も足も長くて、すらりと美しい黒のシルエットは、

千咲子の憧れる本物の大人の貴婦人のようだ。

純日本的な顔立ちに、どこもかしこも小さくて細いばかりの千咲子とはまるで別人。

間違いなく自分の友のはずなのに、一人だけ先に大人になってしまった影がおかしくて、

千咲子はなんだかわくわくしてしまう。

残光の煌きに影は日中よりも濃く強く存在感を増し、陽気に手をふればちょっと気取ってふりかえしてくれる。

千咲子が色々なポーズをとってみれば、影の淑女はしとやかにその真似をした。

ちょこんと袴をつまんでお辞儀をすれば、舞踏会での一礼のよう。

くるくると廻れば、まるで最上のワルツのように優雅に円を描く。

どんな動きも中々に美しくて、嬉しくなった千咲子はますます気取ってみる。

そして、いつかきっと現実になる、大人の淑女の千咲子は、誰かにエスコートされるために、

そっと横に手を伸ばす。

地に落ちた黒い影の、長い指のその先は、今はまだただ草が揺れるばかり。

でも、未来の中ではきっと、誰かがその手をとってくれるに違いない。

そんな事を考えて、突然千咲子ははっと我に返った。

乙女チックに過ぎることを考えてしまったことに、なんだか頬が赤らんで、一人で照れ笑いをしてしまう。

でも、そう、きっともう少し大人になったら、素敵な誰かの影が千咲子の影の隣にあるに違いない。

千咲子は赤い頬のままそれを思って、ほっこりと暖かいような切ないような、甘酸っぱい気持ちになった。

ふふっと笑って、千咲子は宙に浮いたままの手の影をそっとおろそうとする。

と、地に描かれた千咲子の手の影に、静かに近寄る黒い影。

影の手は、そっと千咲子の手の影を受け取って、すっぽり自分の手に包んでしまう。

「え?!」

大人の千咲子の手を握るのは、もっとのっぽで痩せた影。

思わず地を凝視した千咲子は、その影の手が、自分のすぐ後ろからのびていることに気がついた。

千咲子の手の影よりもずっと大きな手の影の先には、影にしても長い手。

細い体は和装ではなく、昨今流行の洋装をさりげなく纏っているようだ。

長い足の傍には、ぱたぱたと尻尾を揺らす犬の影のようなものがうずくまっている。

まるで物語のあしながおじさんのように洒落たシルエットの影。

なのに、その均整のとれた体つきに反して、あまり手入れのなっていないことがすぐ分かる、

ぼさぼさ頭の影を見て、千咲子は影の主の顔を見ずとも、それが誰だかわかってしまった。

安心したやら、照れくさいやらでこみ上げる笑いが押さえ切れなくて、

千咲子は意味も無く髪を直しながら赤い顔のまま振り返った。




「お帰りなさい、蓮二さん」



驚いた顔の青年がおかしくて、千咲子はやっと気まずい思いから解放された。

ほんの数歩先にいる青年は、千咲子の予想通りの青年だった。

「ご無沙汰してます。母の命で、お迎えに来ましたよ」

にっこり笑って千咲子は告げる。

吉良蓮二と言う名のその青年は、当年とって24才。

千咲子の従兄弟にして兄弟子であり、帝都の大学を出た秀才である。

長らくの留守を経て今日帰郷することとなった青年は、千咲子の隣の白い洋館の住人だった。

日本人離れした長身に、西洋彫刻を思わせるはっきりとした美しい顔立ち。

淡い色の髪に抜けるように白い肌の蓮二はなんだか後光のせいで輪郭が曖昧で、

その優しく美しい笑顔は夕日に溶けてしまうのではないかと千咲子には思えた。

「久しぶりだね、千咲子ちゃん。よく見ないで僕だってわかったね?」

そう言いながら頭をかいて、整っていない髪をいっそうぼさぼさにしてしまうので、

千咲子はその自覚の無さに笑ってしまった。

大体、蓮二は千咲子が生まれたときからずっと隣に住んでいて、それなりに仲の良いご近所さんだったのだ。

千咲子がたった数年で隣人を、しかもそんな印象的な風貌の隣人を、忘れられると思っているのだろうか。

「ふふ。蓮二さんは、とても分かりやすいと思いますよ」

答えになっていない答えに蓮二は首をかしげたが、気を取り直して千咲子の頭を撫でた。

「あの小さかったちーちゃんが、大きくなったものだね」

同じ師に学ぶ兄弟弟子とはいえ、飛び切り美しい大人の人に大きなやさしい手で撫でられて、

千咲子は林檎のように頬を染めた。

「蓮二さんは、あいかわらずちょっと抜けてると思います」

たった数年で街中が随分変わったとはいえ、自分の家まで帰れる自信がないから、

と言って留守中洋館を管理していた妹尾家に手紙をだして迎えを頼む人間は中々いまい。

「否定できないな。これじゃ兄弟子と妹弟子の立場を入れ換えないといけないね。

これからは千咲子ちゃんを姐御と呼ぼう」

苦笑しながら言った千咲子に、蓮二は悪びれもせず、すまして返事をした。

思わぬ展開に千咲子はきょとんとしてしまい、ついでなんだか猛烈に恥ずかしくなって、

「もう!」と小さな拳で蓮二を叩いた。

軽くそれをいなしながら、蓮二は声をあげて笑う。

じゃれ合う二人の目があって、それから二人は、ずいぶん高さの違う互いの顔を一瞬見つめあい、

ついで天まで響くほど大きな声で笑った。

「もう、早く行きましょう、子分!」

「はいはい、姐御。どちらまで?」

このままのんびりと遊んでいたい気もしたが、家で家族が待つのを思い出し、

千咲子は家路へ着こうと振り返る。

向かう先にはポーラースタァが、迷うことなく道を示す。

今から始まるその道へ、千咲子はぴょんと大きな一歩。




「もちろんそれはどこまでも!!」




並んで揺れる二つの影は、時折重なりながら、どこまでも続く道を今歩きだした。                                                   ★  
    
        

 
2007.10.5
     
短編連作集の「序」です。
    星のようにささやかで小さな光を、大切にする女の子のお話です。